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日乗・備忘録2003.11.16/亜州和親会への朝鮮人参加に関してイ・キョンソクさんとの応答

2003/11/16(Sun)

昨日開催の平民社100年記念・国際シンポジウムに参加、主催 「平民社百年」全国実行委員会、開会挨拶(山泉 進)クリスティン・レヴィ氏、マイク・H・シュプロッテ氏、ベンジャミン・ミドルトン氏、李 京錫(イ・キョンソク)氏、梅森直之(司会)

李 京錫(イ・キョンソク)さんの発表はかなり勉強になりました。亜州和親会には朝鮮人も参加していたという結論です。シンチェホや東方無政府主義者連盟にも触れていました。従来の研究では参加がないとされていたり曖昧であった。

2003/11/16(Sun) 平民社跡探訪―有楽町、巣鴨、大久保、柏木、千駄ヶ谷。関連企画で昨日の参加者10数名で最後は長い距離を歩きました。

2003/11/17(Mon)

<イ・キョンソクさんの発表論文>全文は主催者である初期社会主義研究会が11月15日のシンポ全体の報告集を冊子として発行するので、刊行されたらお知らせします。当日、配布された資料から章タイトルとジョ・ソアンに触れている箇所を極く簡単に紹介します。<平民社と民族問題亜州和親会を中心に>

はじめに 一 平民社における民族問題1 社会主義における民族と階級2 平民社における民族と階級 二 亜州和親会の創立 亜州和親会の宗旨及び活動 幸徳秋水と亜州和親会 三 朝鮮側の参加問題 1 朝鮮側の参加問題 2 趙素昴の場合 ジョ・ソアン1887-1958 1904年に日本留学1912年帰郷 1913年上海亡命、韓国では「三均学会」がある。1930年代に「三均主義」を理論化。朝鮮の主要な左右合作、民族独立運動組織の運動指針として採択、韓国臨時政府の綱領ともなる、むすびに。

2003/11/17(Mon)

イ・キョンソク<ご評に謝々>拙い報告でしたが、早速ご評を掲示して頂いてありがとうございます。一個師団のイラク派兵を決定した韓国の現状を思うと、アメリカ一極支配体制の下では、国内の反対だけではどうにもならない。今こそ平民社と亜洲和親会の人々に倣い、連帯の行動を起こすべきであると切実に思います。これからこの集いに時々お邪魔して、勉強させて頂きたいと願います。

2003/11/17(Mon)

<シン・チェホとジョ・ソアン>

「...丹斎<シンチェホの号>の、自身の体を省みない活発な活動は、丹斎に衰弱をもたらした。このような丹斎の姿を見ていられず、上海のシン・ギュシクが丹斎を呼び寄せた。ある程度の気力を回復した丹斎はシン・ギュシクが運営していたドンジェ社にしばらく滞在し、シン・ギュシクの助けをかりて博達学院を開設して青年たちを教育した。博達学院は、檀君の精神を生かし、民族の生きる道を探して行こうとする丹斎の意識から始まった教育機関であった。この学院の講師に厶ン・イルビョン、ホン・ミョンヒ、ジョ・ソアン、シン・ギュシクなどが招かれ教育を受け持った。 1914年、丹斎に、中国亡命中、歴史意識の大転換を迎える機会が訪れる。

...丹斎の、自身の体を省みない活発な活動は、丹斎に衰弱をもたらした。このような丹斎の姿を見ていられず、上海のシン・ギュシクが丹斎を呼び寄せた。ある程度の気力を回復した丹斎はシン・ギュシクが運営していたドンジェ社にしばらく滞在し、シン・ギュシクの助けをかりて博達学院を開設して青年たちを教育した。博達学院は、檀君の精神を生かし、民族の生きる道を探して行こうとする丹斎の意識から始まった教育機関であった。この学院の講師に厶ン・イルビョン、ホン・ミョンヒ、ジョ・ソアン、シン・ギュシクなどが招かれ教育を受け持った。 1914年、丹斎に、中国亡命中、歴史意識の大転換を迎える機会が訪れる。

2003/11/18(Tue)

イ・キョンソク

ムン・イルピョン、ホン・ミョンヒは、ともに日本に留学して、ジョ・ソアンと行動をともにしていました。シン・チェホは、ジョ・ソアンと朝鮮で同じ学校を通いました。同斉社(ドンジェ社)は、韓国臨時政府の母体ですが、ここにも日本留学組は少なからぬ役割を果たしています。

2003/11/18(Tue)

上海が面白い、1914年夏に山鹿泰治が大杉栄に依頼され、上海に行き劉師復の民声社を手伝い、9月に戻ります。シン・チェホやジョ・ソアンと山鹿が会っている可能性は少ないのですが...

2003/11/19(Wed)

イ・キョンソク  おっしゃるとおり、山鹿は思復の運動に協力しましたが、シン・チェホやジョ・ソアンとの接点については、まだ言及されてないようです。中国における無政府主義者の連帯運動を探るために、これから山鹿泰治、岩佐作太郎、赤川啓来などの活動を、重点的に追っていかなければと思っています。

2003/11/18(Tue)

『無政府主義』イ・キョンソク さんの論文ではジョ・ソアンが1907年2月2日、無政府主義一巻を購入と日記に記していることを指摘。九津見の下記の本と推測。1906年11月16日発行、平民書房、九津見息忠著<奥付の名><序>の名は蕨村、1906年9月と記されている。註 九津見蕨村の名が一般的です。この少し前、幸徳の直接行動論の影響から『近世無政府主義』が売れ始めたとあります。

参考『近世無政府主義』煙山専太郎1902年、東京専門学校出版部<早稲田大学の前身>刊

2003/11/19(Wed)

イ・キョンソク  私は久津見の著作である可能性が高いと思っていますが、ジョ・ソアン研究に造詣の深い韓国のある研究者は、張継が編訳した本であろうと書いています。張継が1903年上海で翻訳した「無政府主義」は確認できますが、1906年東京で編訳したものは、管見の限り確認がとれないのです。お教えを請います。

2003/11/19(Wed)

玉川信明著『中国の黒い旗』1981年7月、晶文社刊は版元品切れですが、46頁に張継に関する記述があります。

幸徳の訳したエンリコ・マラテスタの『無政府主義』、ロラーの『総同盟罷工論』(1907年)を中国語に重訳している。...と記述があります。出典が明確ではないのですが。『中国黒色革命論』嵯峨隆、2001年7月発行、社会評論社刊、18頁には1903年の『無政府主義』に関して8行の記述があります。内容としては当時、最も体系的に西洋アナキズムを紹介、バクーニンの影響が強いという結論。

燕客(張継)「『無政府主義』序」『無政府主義資料選』上冊、北京大学出版社、1984年、25頁と欄外に註があります。関連記述があるかどうか、他の文献としては『中国アナキズム運動の回想』、総和社、1992年が編集・翻訳され日文で読めます

2003/11/20(Thu)

イ・キョンソク お教えに謝々貴重なお教えをありがとうございます。私が疑問に思うのは、張継が翻訳したという本が果たして日本の書店で販売されていたかということです。日本語の訳本があるにもかかわらず、日本のお客がわざと中国語の重訳本を買って読んだとは到底考えられません。というのと、もう一点は内容的にも、久津見の「無政府主義」の方がのちのジョ・ソアンの思想形成に影響していると思われるからです。久津見は直接行動を否定するものではないですが、最終的な革命は個々人の認識のレベルで起こると言っています。その点が、ジョ・ソアンの六聖教など、のちの思想的な遍歴につながると思えてならないのです。今のところ、これは全く架空の話にすぎません。ともあれ、貴重なお教えに重ねて感謝します



# by koutokushuusui | 2014-06-16 13:52

ブリキ缶の爆裂弾

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# by koutokushuusui | 2011-12-17 19:38

大逆事件の家族たち

『大逆事件の救援史』として連載執筆より抜粋。2008年5月より連載開始。2011年4月掲載から8月

堺利彦
 百年前の一九一一年四月、堺利彦は処刑された同志の遺族への慰問目的と、直接的な弾圧を免れた社会主義の同志たちの状況を把握するために各地を訪問する。
官憲の史料であるが『社会主義者沿革第三』に「堺利彦、陰謀事件関係者遺族慰問の旅行顛末、附大石誠之助遺物の処分」と題された項目が残されている。

 その報告から適宜引用をする。「三月三十一日出発同年五月八日帰京せり……」と、京都府の岩崎革也が堺に対し旅費を工面した事実から書き始められ、「金十円内外を堺に貸与したりと云う旅行中の重もなる事項を挙くれば左の如し」と以下各地での動静が十項目に分けられ記されている。岩崎の三月下旬の東京滞在時に堺や大杉栄が訪ねていることも別項目で報告されている。

 岩崎革也は一八七〇年生れ。『平民新聞』刊行など初期の社会主義運動を財政的に支援した。当時は京都の須知(しゅうち)町の町長と推測される。後に京都府議となる。
堺は四月一日から六日にかけて京都に滞在し岩崎、高畠素之、有馬源次らと会い雑誌刊行、「陰謀事件発覚前後の状況等」に付いて談話をしたという。報告は追尾していた各地の警察官、あるいは密偵が探り出した内容である。この「社会主義者沿革」が作成された経緯の概要を記す。

特高設置直前
社会主義者沿革は内務省警保局が極秘文書として作成、政府部内に配布した社会主義者への視察取締経過報告書である。第三は一九一一年六月時点でまとめられた報告書である。

天皇国家の政府は自由民権運動退潮後も政治思想を有する者を警戒した。一八八六年、警視庁の国事、高等警察部門の拡張を為し所管を八一年以来の内局から本部第三局に移した。警視庁による視察は当初は主として密偵が使用された。一八九三年以降は高等警察専任警官が置かれる。一九〇六年四月に高等課を新設し、さらに一九一一年八月二一日に特別高等課が分設された。
(参考『続・現代史資料1』松尾尊兊《まつお・たかよし》の解説)

処刑後の遺体引取りの新聞記事 画像

岡山
堺は四月七日、岡山に森近運平の妻繁(六月二一日主義者に編入、註、視察対象となる)と実弟良平に面会し「実父嘉三郎に使者を遣わし弔詞を述べ、長女マガラに対する土産として繁より金を受け取った」と報告。附記として良平は「貴下の御越しに付いては自分は赤旗を出して迎度考なり」と語ったという。良平は処刑された兄の無念を解消したかったのであろうか。堺を赤旗で出迎えるという意図は痛快である。堺は遠慮して断り実現しなかった。

福岡、熊本
九日、福岡に着き同志の森繁、横田宗次郎の訪問を受けたと報告されている。
一一日に熊本着、一三日に出発迄の動静は「松尾卯一太の妻倭久、実父又彦、実弟久男を訪ね弔辞を述べ、佐々木道元の実母エキ、実兄徳母に面会慰問の辞を述べ、徳母の案内で、新美卯一郎の妻金子トク、叔父巳之太郎を慰問、巳之太郎の案内で卯一郎の墓を拝し、松尾方にて古庄友祐(旧『熊本評論』社同人)と対談」。

高知
四月二二日から二七日にかけて高知県中村町の幸徳秋水の義兄、幸徳駒太郎宅に滞在し幸徳の家族たちと交流をする。秋水の墓前に詣でる。一家の者と共に下田港湾附近に漁遊を試み、幸徳一家の請に応じ約二〇枚の揮毫を為し、甥徳武次郎(準、註、視察対象に準じる)、従弟安岡友衛(準)、義従弟幸徳虎次(七月八日に準に編入)を始め「十数人の親族に面接し頗る歓待を受けたり」と報告される。

二六日には「土佐郡潮江村に移り翌日に梅の辻なる岡林寅松の実妹晃恵の嫁せる西野久寿弥太方を訪ねる。慰めの辞を述べ寅松家族に対する談話を為す」と報告。


大阪
二八日に兵庫県の小松丑冶の留守宅を訪問。後に大阪に移動。
二九日、武田九平の実弟伝次郎を訪ね同人と共に九平の妻森口ユキ及び同居者にて岡本穎一郎の妻藪田ハル(不在)を慰問、伝次郎、岩出金次郎と共に三浦安太郎の家族を訪問し、九平の留守宅に来合わせた百瀬晋と暫時対談の後に出発。続けて京都に移動し三〇日に岩崎方に一泊し五月一日に出発。

和歌山
五月三日に和歌山県に着く。同日に「大石誠之助の妻恵為を訪ね弔辞を述べる同家に滞在誠之助の墓を拝し、高木顕明の妻権田タシ、誠之助の実兄である玉置西久と訪問を交換し」、「恵為の案内で峯尾節堂の母ウタ方、玉置方を訪問し玉置方にて大石真子にも面談する」(玉置方の訪問目的は同家に預けてある誠之助の書籍を見るためという)。そして西村伊作に出会い成石平四郎、勘三郎の家族には四日に書面で慰問をする。五日、三重県に入り、崎久保誓一の
家族を慰問。

六日に木本港より乗船し翌七日鳥羽港に着き帰京の途に就く。
警察官あるいは「密偵」はどの程度まで主義者たちやその周辺に接近し、情報を得ていたのだろうか。荒畑寒村は同志たちとの茶話会や研究会に警官が同席していたことを回想している。
堺は帰京の夜、同志たちに各地の状況を報告する。

同志への報告
五月七日、堺利彦は帰京の夜に同志たちを招集し報告会を開いた。参集した同志は大杉栄、堀ヤス、岡野辰之助、田島梅子、斎藤兼次郎、吉川守国、藤田四郎の七名である。
『社会主義者沿革第三』に掲載された堺の談話の要領を引用する「大逆事件処刑者の遺家族は坂本清馬、飛松与次郎を除くの外は悉く訪問せしが累の及ばんことを恐れ面会を好まざる者なきにあらざりしも其の多数は歓迎しくれたるを以て余は大に満足せり」。

坂本と飛松の家族を除いて全て訪問をした。社会主義者である堺と会うことにより、官憲からの更なる弾圧が引起されることを恐れ、訪問を嫌がる家族も少数であるがいた。しかし多くの家族は私の訪問を歓迎してくれたので満足をしているという趣旨である。

幸徳の遺族
土佐、中村の幸徳家を訪ね秋水使用の部屋に案内されている。堺は秋水のことや裁判の過程で病死した秋水の母親の遺影をみて様々に感じている。
「幸徳秋水の遺族同駒太郎は余の往訪を喜び特に秋水常居の一室に招かれたり室内には秋水の老母の写真を飾りありて感慨交々至れり秋水の祖母は秋水に再会せしの感ありとて大に喜べり」。

続いて幸徳秋水の遺産の分配に関しての報告である。「秋水の家屋其の他所有品を売却せし代金二千余円ありしも大部分は秋水に於て費消し剰す所約五百円に過ぎざるも」とあり、師岡千代(秋水の離別した妻)には百五十円を譲与し遺稿の『基督抹殺論』の収益五十円を加えて二百円を与えると堺は調整をした。そして「何れ千代に相談する考えなり」と述べ、残りの三百五十円は在米の社会主義者で秋水の甥の幸徳幸衛に譲与がなされるはずであると報告。

各地の家族
刑死者の家族の様子も報告されている。「松尾の妻は管野スガの後継者になる可能性がある」。
『熊本評論』を刊行していた松尾卯一太の妻に関する評価である。管野須賀子が引き合いに出されている。妻の直接のコメントとして伝えられていないので推測をするしかない。妻が語ったのは政府批判であり、天皇国家の問題点、社会矛盾に関してのことなのであろうか。その後の消息は資料で見ることはない。

「武田、岡本の妻は芸者屋を為しているが警察の迫害に苦しむ」、
大阪の武田、岡本の妻は芸者の置き屋をやっていたようである。警察からいやがらせを受け苦痛となっているようである。

「森近良平は意思堅固、立派な同志である、運平の妻は東京の同志のことを尋ねていた」。運平の実弟の評価が高い。
「京都の同志は東京の同志と常に連絡を保ちたいとの懇望、同志の氏名を告げる」。
京都の社会主義の同志たちは東京の同志たちと連携を続けるという決意があり、堺は連絡が可能な同志たちの名を伝えた。

和歌山の遺族たち
和歌山での大石の妻に関して報告。「病院其の他器具等を売却し当時は極めて閑散の身と為り居るも流石は大石の薫陶をうけたるものなれば」と語り始め、誠之助の「衣類書籍は東京の同志に配布を」と依頼されたことを報告。
「高木の妻は同地の習慣で後継住職の梵妻たるべきはずであるが妻は過日、秋田監獄の高木を訪問し不都合ということで、放逐された」。

同地域のみの習慣なのか、後継住職の妻になるはずが監獄に行き面会をしたという当然のことが問題視され、寺から追われたということである。

堺の今回の旅行全体に関しての費用は「三百円かかったが岩崎より恵まれる。同氏に対して大いに感謝する」。前号に記した岩崎革也の資金カンパが堺の今回の訪問を支えた。

「各地の状況は決して悲観すべきにあらず尚かつ優に一と旗挙げ得べきを認めたり」。
大逆罪弾圧の判決と処刑から数カ月を経たなかでの同志懇談会である。堺は数少なくなった同志たちを奮いたたせるコメントを発した。

最後に「エマ・ゴールドマンより幸徳其の他、刑死者に対する弔慰金として三百弔慰金
『社会主義者沿革第三』に項目タイトル『米国紐育の「エムマゴールドマン」婦人より陰謀事件関係者に対し義捐金を送付し来る』と付され
弔慰金の分配先の一部が記載されている。

まず四月一一日付でエマ・ゴールドマンより横浜貯蓄銀行払いにて「米貨換算額」百五十円が加藤時次郎宛に送金されている。先に三百円の額と堺より報告されているが銀行が海外からの個人送金の手数料として大幅に銀行が引いたのだろう。(今日でも銀行を利用して海外から送金を受けると手数料が大きく引かれる)。

堺が分配せし形跡あり、と書き始められ「其の内判明せしもの左の如し」として森近運平実弟良平へ金十円、成石平四郎寡婦「むめ」へ五十円、坂本清馬実父幸三郎へ十円、成石勘三郎家族へ金五円、新田融妻ミヨへ金十円と列挙されている。

同沿革の記載によると、加藤はエマと面識がないという。加藤が滞米中に演説をしたことがあり、エマはその件から加藤の連絡先をたどったと思われる。

エマ・ゴールドマン
エマは一八六九年リトアニア生まれ、ロシアからアメリカに移住した。アナキズム運動、女性解放運動、反戦運動に参加し七〇年の生涯を通して闘い続け、恋愛にも情熱をそそいだ。一九世紀末、二〇世紀始めの社会主義に関心がある人たちにとってエマ・ゴールドマンは大きな印象を残している。エマの発表した論文や彼女の活動は伊藤野枝などによって邦訳され一九二〇、三〇年代のアナキズム機関紙誌に多く掲載された。エマの関心は労働運動、産児制限、男女同権、徴兵制反対、監獄と多岐にわたり、ロシア革命時には当地に渡ったが失望し、スペイン内戦においてはアナキストを支持した。

マザー・アース
沿革には『マザー・アース』誌の一九一一年七月発行号に掲載された堺利彦と加藤時次郎のエマ宛書簡と同志で恋人でもあったアレキサンドル・バークマンの「日本よりの声」と題された短い前書きが官憲により訳載されている。
「沿革」の訳載文は漢文混じりである。堺が英訳した書簡をエマに送ったのかどうか定かではない。官憲から依頼された訳者が形式が書簡ということであえてこのような訳文にしたのか。もしくは堺が文中で指摘しているように官憲が信書をかってに開封し事前に写しとっていたのであろうか。「沿革」は今でこそ文献として読めるが、元々は政府の一部中枢に報告された官憲の文書である。当時、堺たち社会主義者が手にすることはできなかった文書である。

堺書簡
「日本政府の野蛮なる実に拙者共の信書の封緘をば窃に相破り候も併しながら未だ流石に金円は窃取不候、故に此の際何卒御送金願上候、金円は目下非常に入用に有之…」と書き始めている。日本政府、すなわち政府の意を受けた官憲が堺利彦が発受信する書簡を開封するという事実をあげ、しかし現金に関しては今のところ盗られていないので送金をお願いしたい、今お金は必要であるという趣旨である。

続けて「二十名余の我同志者は今尚鉄窓の下にあり、其の多部分は無期懲役囚に御座候、而して過般殺戮せられたる同志者共の遺族等は四囲の迫害と日夜の貧窮とに悪戦苦闘致居候、想ふに全世界に亘る我が同志者は必ずや吾々共に深く御同情下さる事に可有之候」。

大逆事件以外で弾圧された同志たちも含めてであろうか二十名と記している。先に堺が遺族、家族を訪問し東京の同志たちに報告と同じように周囲からの迫害を受けていること、困窮状態にあること世界の同志たちは同情してくれるだろうと訴えている。

日本の下層社会は覚醒しつつあり社会主義運動は今後十年で大きくなるであろう、医師の加藤時次郎は友人にして同志である、と記す。

家族への配分
今回、義捐金を送付して頂ければ最も逼迫している遺家族に配与し、一部を以て在監中の同志者に書籍の差入を致す費用にさし向けたい、しかし在監者は「僅かに其の最近親戚より送付の書面を受領し得るに止り、自余の面々よりは一切文通を受け難し、其の受け得るは書籍の差入れだけに御座候」と親戚以外は書籍の差入れしかできないことを伝えている。

「今や日本政府は社会主義又は無政府主義の新聞雑誌を悉皆没収致候も、夫れに拘らず小生は時々米国に在る友人より貴『マザー・アース』誌を寄贈せられて領掌居候」と関連文献は発禁処分にされているが、あなたの雑誌は受け取っていると六月三日付けの書簡を結んでいる。

妻たちの困窮
前号は『マザー・アース』誌宛て堺利彦の書信を引用したが続けて加藤時次郎の執筆の文面を引用する。
(参考文献『社会主義沿革一』みすず書房)。
加藤は堺が各地の家族を訪問して知り得た生活の概況を手紙に認めている。すでに堺の報告を引用したが新しい内容もあるので紹介する。

「同志者新美の寡婦は琵琶弾手となりて僅かに糊口致居り、其の母と共に極めて淋しく暮らし居り候」
「同志者松尾の寡婦は一男一女を有するにも拘らず、故人の弟と逆縁致すべき強迫致され候」。義理の弟との再婚を峻拒したので勘当され路頭に迷うのではないかと判断している。

「同志者森近の未亡人は裁縫学校の教師となりて生計を営まんとし目下其の手運び中に御座候、彼女に七歳の女児一人ありしも右は亡夫生家に引取りて養育する所と相成り、彼女は真に手持無沙汰に有之候」。

二人の女性は家父長制の社会で子どもの育児もままならず、さらに独自の収入を得ることの困難さ、大逆事件の被処刑者の妻であることから独りあるいは子育てしながら生活して行くことに幾重もの圧力を受けている。
「大石未亡人は亡夫の遺児二名と共に極めて安穏に暮らし居候、同志者大石は医師に有之、若干の財産を遺して去りたるものに候」、
「同志者成石の寡婦は其の養父母と共に覚束なき小店を有して生活致居候」。
老父母の困窮
「自余七名の殺戮せられたる我同志者は何れも独身者なりしを以て寡婦をも孤児をも遺さず候」と報告されている。他の刑死者七名は独身であったが或る者は老父母が居た。その父母は貧苦に悩んで扶養を受けざるを得ないであろうと報告している。

無期囚の家族
在監者の同志者家族に就いては「小松の養女は養鶏を以て湖口致居候、武田の養女は芸妓を致し居る其の姉妹の留守番等を勤めて詰り姉妹の厄介になり生活、岡本の養女は工女と成りて勤め候」と不安定な仕事に就いていることが報告。

「取分けて非惨なるは岡林の妻女に候、彼女の両親は彼女に迫りて遮二無二、在監中なる其の良人と離縁せしめんと致し候も、彼女百方之を拒み候、然るに結局彼女の意志は蹂躙せられて離縁に相成り彼女と良人との間に挙げたる一男児は強いて彼女の腕より捥ぎ取られ良人の老父之を鞠養致候」とやはり封建的な家制度の犠牲となっている。

家族への義捐金
加藤は家族に義捐金を分配すると報告して文面は終っている。日付は一九一一年六月八日。宛名は在紐育、友人にして同志者なるエー、バークマン殿。

状勢一班第四
大審院の判決から半年近く経て内部報告文書の名称の変更があり「特別要視察人状勢一班」となる。「第四」の期間は「大凡明治四十四年七月より大正三年六月迄の間に於ける特別要視察人状勢の一班を叙述したるもの」と三年に亘る。

分析された主義者
「第一款総説」には「幸徳伝次郎等に係る陰謀事件の判決は要視察人をして頗る戦慄恐怖の念を懐かしめ中には之が動機となりて全然主義を抛棄したりと認めらるるものなきにあらず」、
「該事件以来一般に警戒心を助長せる結果表面は至極平静なるの観なきにあらざるも一歩進めて深く彼等の真相を探るときは思想堅固なるものに在りては毫も其の変化を来したる跡なきのみならず益々之が研究に力め同志の糾合を図りて他日に期する処あるもの」、

「不敬罪犯者等の恩赦に浴して出獄せるものが尚改悛の域に達せず彼等の群に投じて行動を共にする等甚憂慮に堪えざるものあり」と大逆事件以降の社会主義者たちの動向を分類している。

対象人員数
第二款には視察対象の人数が記されている。「人員は陰謀事件関係者の他の家宅捜索等に拠り新たに多数の者を発見したる為明治四十四年六月末日現在は特別要視察人九百九十四名準特別要視察人九百八十一名」「大正三年六月末日、前者二百五十九名、後者四百二十七名」。

関連の家宅捜索で一時的に増えたが三年後には要視察人が四分の一になり減少している。元々大逆事件における弾圧が大方はフレームアップの上に彼等の家族や周縁の知人にまで家宅捜索をした結果が要視察人の増加となっている。減少するのは当然である。


幸徳の「陳弁書」
「堺利彦は明治四十四年七月一九日附けを以て茨城在住小木曽助次郎へ宛『故幸徳伝次郎が生存中獄中より弁護士に送りたる極めて有益なる書面なれば一読の上返却せられたし』との意味を附記し左の一遍を郵送せり。『幸徳秋水の獄中より弁護士に贈る書』。目次、諸言、無政府主義と暗殺、革命の性質、所謂革命運動、……聴取書及調書の杜撰」と項目がたてられ、続けて長文の本文が全文収録されている。

堺が幸徳の弁護人から幸徳の書を借り受けて筆写したものを送付したと推測できる。幸徳は大審院の休廷日の一二月一七、八日に弁護士宛ての文書を執筆した。無題であるが後に「陳弁書」と言われる。
天皇国家の官憲は郵便局の協力のもとに社会主義者の書簡を開封するという暴挙を継続していたのである。幸徳が刑死して半年、堺利彦は幸徳の思想を同志たちに伝える役割を担っていた。

SBS特別放送
韓国ソウル放送の八月一五日の独立記念特別番組の企画が『日本人の独立運動家』、幸徳秋水、 金子文子、布施辰治を中心に描き、日本人でありながら朝鮮の独立運動に大きな影響を与えた人物のドキュメンタリーとして制作される。私への取材があり文献での全面的な協力を依頼された。その過程で従来研究対象としていた明治学院大学図書館の沖野岩三郎文庫の「千九百十年事件」の巻物を直接閲覧することができた。安重根の肖像写真と幸徳の漢詩のポストカードも貼りつけられていた。

特高
百年前、一九一一年八月二一日、大逆事件を機に警視庁は全国の警察に先駆けて従来の高等課から特別高等課を分離した。内務省警保局が社会主義者等を監視し情報を集めた内部文書の「社会主義者沿革」は「特別要視察人状勢」となった。その一九一一年七月より一四年六月迄の「特別要視察人状勢一班」を叙述した「第四」を引続き引用して行く。(参考文献『社会主義沿革一』みすず書房)。

救援活動
「陰謀事件関係者又は其の遺家族等に対する行動」と題された項目は堺利彦に関する内容である。
〈堺利彦は引続き自己又は同志の名義を以て陰謀事件服役者に時々出版物を送付し、其の家族に対し彼の米国無政府党員「エムマゴ―ルドマン」婦人等より寄贈を受けたる義捐金を分与し又家族の手を経て服役者に出版物を差入れ時に又同事件の記事ある雑誌の類を遺家族に送り、幸徳伝次郎以下刑死者十二名連写の写真を複写して広く之を同志に配布し其の他主義の信念深く不敬罪等に依り入監せる者に向っても亦出版物を郵送したることありしが費用の欠乏を告げるたるものにや明治四五年春頃より此の種の行動を控え居れるか如し而して一派の者等を従え東京に存在する刑死者の墓参を為すは毎年の行事として之を継続せり〉。

これまで引用してきたが堺利彦による家族への救援活動が継続していること、刑死者の写真を複製し同志たちに配布したこと、関連捜索で不敬罪事件にまきこまれた同志たちにも図書の送付という救援活動をなしたことが報告されている。 しかし一九一二年の春には差入れ活動を一段落させたが刑死者の墓参りに関しては続けているとまとめられる。

官憲に察知されずに家族や同志の救援をしたケースもあると思われるが堺の奮闘は一年以上にわたった。

米国からのカンパ
「附記」として二人の在米の無政府主義者の動向が報告されている。
〈在米国桑港無政府主義者村田「某」なる者明治四四年八月二十日頃堺利彦に向け金六十円を寄贈し幸徳伝次郎等陰謀事件関係者の遺族竝在監者へ分配方を委嘱し同時に来四十五年一月二十四日の幸徳等一周年当日は記念の何等かの書籍を出版する旨を以て其の材料送付方をも併せて依頼し来れりと云う〉。
サンフランシスコ在住の村田という人物が堺に救援費用をカンパしたという内容である。また追悼の書籍が刊行された際には送って欲しいという依頼に触れている。

次に幸徳がアメリカ滞在時に間借りしていた家のアルバート・ジョンソンに関して報告が掲載されている。ロシア出身のアナキストである。
〈在米国桑港無政府主義者「アルバート、ジョンソン」元露西亜人にして職業は機関技師なり、幸徳は明治三九年一月より四月下旬迄加藤時次郎の弟時也(無編入)と共に「ジョンソン」方に室借りして居住せり「米国に於ける日本人」…参照)は明治四十四年九月初旬頃堺利彦へ宛幸徳伝次郎に対する香奠として金十円を贈り越せりと云う這は堺に於て幸徳死刑の顛末を記し同人最終の著『基督抹殺論』一部を添えて「ジョンソン」へ送付したるに因るものなりと〉。

堺宛てにジョンソンが幸徳に対する香典を送ったこと、それに対して堺は幸徳が処刑された経緯を書き、幸徳の遺著である『基督抹殺論』を同封して送ったと報告がされている。
# by koutokushuusui | 2011-11-24 16:16

管野須賀子の『平民新聞』発行における奮闘

 千駄ヶ谷に移った平民社では新たな活動のスタートもあり活動家の出入りは増えて来た。
『自由思想』発刊の準備と共に実質「冬の時代」の直接行動派にとって再起の運動であった。前年〇八年六月の無政府共産の「赤旗事件」で多くの主要な同志が獄に囚われ、壊滅
状態からの立直しが管野須賀子、幸徳秋水らによって図られたのである。
 
その社会革命への意気込みは前号で紹介をした発刊の序に著されている。しかしこの自由思想を前面に出した運動を天皇国家、明治の専制政府が放置しておくはずはなかった。
 『自由思想』創刊号の発刊からして官憲による妨害を受けた。
百年前、一九〇九年、五月二十五日の創刊のため届け出を出した四月九日からの経緯が創刊号三面に「本紙の発行と迫害」として報告されている。

《最初に届出を済したのが四月九日で、同月廿五日に初号発行の手筈でした。編輯を了へ、校正を了へ、製版さへも了へて、将に印刷に掛らんとする間際に至つて、下の如きことを耳にした「曰く、神田警察署長は印刷会社の社員を呼出して『自由思想』は悉皆差押へることに決したれど印刷者の手より取上げる訳には行かねば、発行所へ引渡すと同時に差押へる手筈である、左れば一枚も散らさぬやう一纏めにして印刷所より車に積で発行所へ運送してくれ、警官は之に尾行し引渡しと同時に差押へることにする」》


と神田警察が印刷所社員に圧力をかけ、差押え「漏れ」が無いように全てを強奪をする手筈にしていたのである。

《「若し先方より受取に来れる人々に渡せば途中より何処かへ持出して隠すやも知れねば、左様のことなきやう依頼する、運送の費用は警察にて負担する云々」といふ趣旨を伝へたといふのでした。》 

 管野は怒る。

「未だ発行もしないのにかくも穏和なものを疾くに差押への準備をしている」
「この日は日曜にも拘らず署長が出勤し、なおかつ警視総監まで来て指揮して居る」
「印刷所の前後五カ所の入口には一人づゝ各袖巡査を配置して印刷物の運搬を見張つて居る新宿署でも、板橋署でも、芝署てせも、夫々数名の各袖を出して警戒させている云々」


と警視総監を筆頭に関連箇所、都心の警察署巡査の応援まで得て印刷所を監視下においているのである。

「兎に角発行は許されない、印刷物を受取れば直ぐ差押へられて、署名人は告発されることだけは疑ふ余地がなかつたので、折角製版まで出来上つた苦辛と労力と時間と費用とを犠牲にして怨みを呑んで印刷を見合せました」

と弾圧を回避するために、いったん編集をした版をあきらめたのである。
 さらに

「吾等がダメだと諦めて引取たにも拘らず、其の翌日は神田署の更科警部が巡査久保某を従へて、印刷所へ出張し校正刷の枚数まで厳重に取調べ、翌々日は宮越署長が印刷会社社長竹内氏に面会を求めて、紙型版を吾等に渡さゞるやう相談し」、

さらに竹内氏が運動に助力する形跡があれば印刷所に数名の各袖巡査をはりつけるという恫喝まで行う弾圧の激しい内容を記している。

「紙型版は遂に吾等の手に受取ることゝなりましたが、又其紙型を外へ持て行て印刷するのでないかといふので、夫は夫は厳重に調べて居ました。差押へられると知れたものを誰がムダな費用をかけて印刷するものですか」

と徹底した機関紙発行への嫌がらせが続いたことを書く。


《甚しきは、幸徳などの書たものは絶対に禁圧する方針だからイクラやつてもダメだと忠告が頻々と来るので、全く断念しやうかと相談しました。しかし法律に触れないものを告
発する訳にはいかない》


と、第二回の計画に取掛ったこと、ようやく印刷所が見つかったが発行日まで幾日もなく原稿の締切りまで三日間しかない顛末を書いている。
『自由思想』二号にいわば平民社日誌となる「ぬきが記」のコーナーがある。管野須賀子は発行までの平民社界

隈の官憲との顛末を語っている。

 十一日に管野は鼻炎の手術をしたことを書いている。

《神田の橘田医師に肥厚性鼻炎を切って貰ふザクリザクリと骨をむしられる様で、余り気持ちの好いものじゃ無いが、少々痛快な感がする》。

 十三日には
「古河君から印刷所が要領を得たとの便りがあり」

と印刷所のめどがつき幸徳が喜んだこと。

しかし十四日の項では

《秋水先生動向として「数日前から歯科医に通って居られた先生、今日は殊に療治が荒かったので終日苦しまれる、然し痛いと口には出さないで『歯を治しておかないと演説ができないからなァ』》

 と歯痛に悩んでいたことを明らかにしている。
 
五月十日

《上野から俥を飛ばして千駄木の友人を訪ふ、車上振返ると書生風のお供が、矢張り俥で追駆けて来るのでウンザリした。》

相変わらず官憲の追尾が徹底していることに触れている。 
 五月二十日

《前夜来抜目なく支度してマンマと警戒の眼を眩まし、雨の中を先生と校正に行く、校正刷りの裏に赤インキで「壮哉、吹き倒す起る吹かるる案山子哉」と書いてあった。ああ此処にも隠れた味方があると嬉しく思ふ》

と、ようやく追尾を避けて校正に行けたことを書く。

 二十二日の項では二人の同志が印刷所へ初号を取りに行ったこと

「無事に刷り上つたのを手にした瞬間の嬉しさ、胸が一杯になつた」

と管野は率直に感想を書いている。届出と活字上の発行日は二十五日であるが官憲を出し抜くため早めに刷らせた。まず発行をすることを最優先とした。 創刊号は政府、官憲の徹底した弾圧、監視下で発行が準備されたわけである。

  アン・ジュングンの項 省略


五月の平民社
 再び百年前の平民社に戻る。合法的な運動、機関紙による表現に対して徹底的な妨害がなされたことが管野、新村忠雄たちが宮下太吉の登場を得て非合法な活動に向かう契機の一つになっている。詳細に渡るが引き続き紹介をして行きたい。
 
 管野須賀子の「ぬきが記」によると五月上旬から周辺の同志にも官憲による監視の強化がされている。抜粋をする。
 
 三日
《竹内、戸恒の両君旅行して館林まで行つた時初めて尾行されて居る事を知つたといふ、呑気な人達哉》

と尾行に気付かずに北関東に行った同志に触れている。

 四日
《奥宮健之氏来訪》

とある。奥宮は社会主義者ではなかったが幸徳と旧知で爆裂弾の構造を幸徳が問い合わせたことで大逆事件の被告の一人とされ処刑された。

 六日

《『法律と強権』秘密出版があったとかで政府がマゴマゴして処々を調べて居る、竹内君などは警察へ呼ばれた上に家宅捜索を受けた、勿論平民社も探君の御来訪を辱ふした》。

クロポトキンの小論文を翻訳し届けずに印刷、発行したことで関連弾圧を受けている。       
 
七日

《竹内、村田の両君の外に、至って意久地の無い女の私にまで今日から警察のお供がつく、癪を抑へて「出世したもんですね」》、

十日

《上野から俥を飛ばして千駄木の友人を訪ふ。車上振返ると書生風のお供が、矢張り俥で追駆けて来るのでウンザリした》

と管野須賀子自身にも五月七日から尾行がつき、平民社メンバーは全員が監視下におかれるようになった。

 一六日に当初の印刷所に官憲の圧力がかかり嫌がらせをさせられ別の印刷所を探すことになった。

一七日に

《早朝裏門から出掛けやうとすると、警戒頗る厳で隙が無い、仕方なしに小島君(尾行)に護衛せられて国木田女史を訪うて帰る》

と監視が厳しいので官憲を同行させざるを得ず、印刷所探しをいったんは諦めている。しかし新たに国文社という印刷所が引き受け二二日に『自由思想』の創刊号を無事に受取っている

伊東博文の罪状
 アン・ジュングンは伊東を狙撃した地、ハルビンにおける一九〇九年一〇月三〇日の取調で狙撃の理由を一五箇条にして述べた。そして一一月三日に移された旅順監獄で内容に異動はあるが三日後の六日に再び語っている。アン・ジュングン主張による「伊藤博文の罪悪」の一部を紹介したい。

「…第三、一九〇五年 兵力を以て大韓皇室に突入。皇帝陛下に五ヶ条の条約を強制した事。第四、一九〇七年、さらに加えて兵力突入。韓国皇室を抜剣して脅かし七ヶ条の条約を強制した後、大韓皇帝陛下を譲位させた事」

 略


 第五からは「韓国内の山林、川沢、鉱山、鉄道、漁業、農商工等業すべてを奪った事。国の財政を枯渇、韓国内地学校の教科書を没収、焼火。幾多の義士が蜂起。国権の回復を望む者を暴徒と称してある者は銃で、ある者は絞めて殺戮。甚だしきは義士の遺族、親戚にいたる全員におよぶも絶えず。奢戮者は十余万人に当たる事。いわゆる韓国政府大臣五賊七賊等、一進会の輩と締結、韓国三千里の国土を日本の属邦となさんと宣言」と「国土と民衆」
を蹂躙した罪をあげている。

「第十四 韓国一九〇五年より都に安日なく、二千万の生霊、声を天に振り上げて哭く。殺戮絶えず。砲声弾雨いまに到ってやまず。然し独り伊藤は、韓国は太平を以て無事と上は明治天皇を欺いた事。第十五、此東洋平和の永続を破傷し幾万々人種は将に未だ滅亡を免れない事」

 国家と帝政を前提にしているが韓国と東洋の平和が侵害されている現実を挙げている。

宮下太吉の試爆
 略

創刊号の発行
 また同年五月の千駄ヶ谷の平民社に戻る。

 官憲は二五日の発行を前提に平民社に対して監視を厳しくしていた。

二十三日には

《熱心なる五、六名の諸君来遊、さまざまな活劇がある》、

二十四日は

《平民社騒然となる。活劇の評判が聞えたのか同志諸君が続々様子を聞きに見へる。夜△君が門を出ると「其風呂敷包は何だ」と巡査が調べる、何でも無い朝日新聞だつたので極り悪さうに引込んだ、十一時頃○君と×君を又調べる×君大に憤慨して荷物の風呂敷包を押拡げ、冷罵嘲笑二人の巡査を顔色無からしめて悠々去る》。


 平民社への出入りが全て検問を受け所持品のうちとくに印刷物が厳しく調べられ、それに抗して同志と官憲との「騒動」となったようである。
 
続けて

《此数日来数人の同志の苦心惨憺たる活動は到底筆紙に尽し難し「口より耳に」以外は沈黙日本も露国化する》

と記され、届け出三日前に印刷済みの創刊号を官憲に悟られずに持出した同志たちの奮闘を暗黙に語っている。 
 最初の版が紙型まで廃棄させられたことへの怒りと表現の自由を守るという立場で同志たちが見事な連携の活動をとったのである。


『自由思想』の差押え
 

二五日に

《初号発行の当日なり△予て用意の「平民社」の看板を懸け早朝から室を清めて差押えを待つ……新宿署の高等刑事徳元君が差押さえ命令書を携え来り残部八十六部押収して帰る秩序壊乱で発行兼編集人の私は告発された、国木田治子女史発行のお祝いを持って来て下さる、帰途例の通り巡査に捉って「これはオモチヤですよ」》

と押収されたことを報告している。しかしすでに発行日までに創刊号を予約者たちに手渡し、発送も済み、残部が八十六部しかない状況で官憲の押収を待ち構えていたことを明らかにしている。

二十六日の項には

《『自由思想』注文が来る、買いに来る人がある、数人の同志が発売禁止の見舞いに来て下さる》。


平民社への検問体制
 

二七日には


《今日から来客の荷物を調べず一々姓名を調べることになつた》


とすでに配布されてしまった創刊号の所持のチェックはさすがにあきらめている。三十日になると

《向ふの貸家へ巡査が引越して来た》

と実質の検問所までが設置されている。
 

 三十一日に幸徳は新宿署、管野は警視庁へ喚ばれ

《新聞紙法改正に就いて詰らないお達しを受ける為めなり》と恫喝が続く。

『それから』への描写

 夏目漱石は一九〇九年六月から十月まで(執筆は八月まで)『東京朝日新聞』と『大阪朝日新聞』に連載した小説「それから」にこの官憲の監視状況を描いている。
 連載開始は二七日であるが、六月七日、八日に幸徳の友人である朝日新聞の記者杉村楚人冠こと廣太郎が幸徳訪問記を「幸徳秋水を襲ふ」と題し三面に署名記事で書き、幸徳から指摘された官憲の監視の様子を記述している
 漱石は直接、杉村から聞いたのか、また『自由思想』を読む機会があったのかもしれない。
 小説中の会話部分を引用する。朝日新聞には九月上旬に掲載されている。

『それから』
「平岡はそれから、幸徳秋水と云ふ社会主義の人を、政府がどんなに恐れてゐるかと云ふ事を話した。幸徳秋水の家の前と後に巡査が二三人宛昼夜張番をしてゐる。一時は天幕を張つて、其中から覗つてゐた。秋水が外出すると、巡査が後を付ける。万一見失ひでもしやうものなら非常な事件になる。今本郷に現はれた、今神田へ来たと、夫から夫へと電話が掛つて東京市中大騒ぎである。新宿警察署では秋水一人の為に月々百円使つてゐる。同じ仲間の飴屋が、大道で飴細工を拵えてゐると、白服の巡査が、飴の前へ鼻を出して、邪魔になつて仕方がない。」

 杉村「幸徳秋水を襲ふ」

「九人の同志尽く獄に下つて己れ独り孤塁に拠つた無政府主義の大将幸徳秋水君を試みに平民社に訪ふ、千駄ヶ谷九百三番地と聞いた許りで八幡知らずの様な町町を尋ね廻つてやつと其家を探し当ると幸ひに自宅にいたことは居たが大将座敷の真中へ床を取つて寝ている、
 僕の顔を見るなり秋水君づかづかと起きて僕を玄関口迄連れて行く、おい一寸彼れを見て呉れと指さす所を見れば、街道を隔てた此家の前の畑の中に天幕が立つて紅白だんだらの幕が下つて居る、之が巡査の詰所で此処で秋水君の一挙一動来訪者の誰彼尽く見張られて居るのである、何んでも始めの頃は野天で立番して居たものだが夜中や雨の折が困ると思つてか近頃此の天幕が出来た、巡査は昼夜の別なく四人掛りの見張通しで、其中二人し此の天幕に、後の二人は家の後の原の中へ蓙を敷て張番しているとのことだ、此の巡査の手不足な折柄に一幸徳秋水の為に四人の巡査が掛り切とは余りとしても贅沢すぎる……」


巡査の誰何

「巡査が尋ねて来る人の姓名を一々誰何する」、幸徳の同志を「尾行をする」、「同志である車夫の野沢、飴屋を始めた渡邊という友人、高島という書物屋(ほんやとルビがあり、出版社を経営している高島三申のことか)の親父は尾行と親しくなる」。

「此等東京中の注意人物には行幸啓中もある折特に厳重に其の挙動を監視することになつて必ず一、二名宛の巡査を一人一人につける『皇室に危害を加へる恐れがあるとでも思つているのだらうが誰がそんな馬鹿な真似をするもんか』と秋水君は笑つた」


 と、この一年後に大逆罪で囚われることは予測できずに語っている。この時点で杉村は幸徳への取材という形をとり日本という天皇国家が監視国家であることを読者に伝えている。

社会主義概観
 翌日の後編では社会主義研究の歴史が七、八年前に始まったこと、

「日露戦争の時に『平民新聞』が出来、社会主義の運動としては之が日本で真最初のものであつた」

 ことが書かれ、幸徳の渡米に触れつつ、今日は片山潜の社会民主主義と幸徳の『自由思想』を機関とした無政府共産主義の二派ばかり、同志たちの入牢、警視庁の厳重な取締、自由思想発行に対する弾圧があり大同団結で同志は幸徳と行動を共にすることになつて来たといふ」と幸徳との懇談を伝える。

「社会主義と無政府主義の異同優劣などに就て僕等はやゝ暫く問答もすれば議論もして見た、が併し僕は今夫を一々此に書いて朝日新聞社の前に天幕を立られるのを待つ勇気はない」と皮肉も込めた記述が続く。
 
二葉亭四迷
 二葉亭四迷の客死の話題が出て、杉村は

『君も桑港辺で死んでいたら今頃はえらいものに祭り上げられて居たらう』と言へば『いや祭り上げられるより生きてる方が宜い、夫にしても金が欲しいなァ』とつかぬことを言ひ出す。
 二葉亭は近代文学の先駆者として言文一致の小説『浮雲』を執筆。朝日新聞に入社し小説を連載、〇八年に東京朝日新聞の特派員としロシアに赴任したが滞在中に病気になり帰国途中の船内にて死去。
 幸徳は〇六年、七年にサンフランシスコを訪問し滞在した。現地か帰国途中で病死をしていれば社会主義者の先駆者として大きく報道されいっそう名があがったのにと杉村は幸徳をからかっている。

死生
 しかし、この一年半後に幸徳は獄中からこの杉村の戯言に対して真剣に触れざるを得なかった。幸徳は

「私は死刑に処せらるべく、今東京監獄の一室に拘禁せられて居る」

と『死生』のテーマで語り

「一昨年の夏、露国より帰航の途中で物故した長谷川二葉亭を、朝野挙って哀悼した所であった、杉村楚人冠は私に戯れて、『君も先年米国への往きか帰りかに船の中ででも死んだら偉いもんだったがなア』と言った。彼れの言は戯言である、左れど実際私としては其当時が死すべき時であったかも知れぬ、死処を得ざりしが為めに、今の私は『偉いもんだ』にならないで『馬鹿な奴だ』『悪い奴だ』になって生き恥じを晒して居る、若し此上生きれば更に生恥じが大きくなるばかりかも知れぬ」
と自戒をこめて語っているのである。

為すべきことを為す前に天皇国家によってフレームアップされた悔しさもある。

巡査を誰何
 平民社から杉村が帰るときの官憲への対応が描写されている。
「いざ帰らうとすると秋水君停車場迄送つてやらうといふ、乃ち連れ立つて今度は裏の木戸から出る、木戸の外に成程蓆が一枚敷いている。巡査の張番する所だ」

と誰も居ないので
「今の間に潜と出てやらうぢやないかと囁きながら五六間行き過ぎると『オイだめだ来た来た』と秋水君が笑ふ、ふり顧れば如何にも麦藁帽子を被つた一人の男が宙を飛んで駆けて来る、僕等は委細構はず新宿の方へ一二丁も歩いた後又後をふり向くと之はしたり何時の間にか追駆て来た男が二人になつている」

 いったんは官憲を出し抜いた。しかし追いつかれ杉村への誰何が行われた。

「電車に乗らうとすると処で初めて一人の男が怖々と僕に近いて『お名前は』と来た、僕よりも先君の名乗をこそと言へば懐かい探つて手帳を見せる、新宿警察署巡査海老澤何某書いてある、『確な人だよ』と幸徳君が言葉を添へる、何方が調べられてるのだか分らなくなつて了つた、」ところが杉村は逆に誰何をしたのである。

幸徳が逆に巡査の身分を認めたというエピソードで平民社訪問記を締める。

『自由思想』二号

 第二号は早くも六月十日に発行され、「平民社より」で管野須賀子は記している。

《何しろ秘密出版が続々顕はれるので、政府のお役人も余程狼狽されたと見へまして、重なる同志には、近来総て尾行がつく様になり、殆ど手も足も出されないといふ始末で厶います。……物数奇な日本政府は斯くして多くの謀反人を製造して呉れるのでございます》

《初号を出し抜かれた腹癒せといふのでも厶いますまいが、本社などは其以来、昼夜交代で四人づゝの角袖が、八つの眼を光らして警戒して居ります、表口に二人、裏口に二人》(註 「厶」は「ござ」と読む)。

《本社と往来を隔てゝ其の屋敷がございます、数日前そこの生垣が破られて入口が出来、紅白の幕引廻した一間に一間半ぱかりの天幕が張られたので、オヤオヤ園遊会でもあるのかナと見て居りますと、其中へ籐椅子と床几が運ばれて、警戒のお役人がちやんと控へられたので少々呆気にとられました》

《一行紙片の印刷をもさせない、妨害しやうといふ政府の眼を掠めての仕事で御座います上……》と管野の一文を読めば漱石の描写は正確であることが判る。漱石の参考文献は『自由思想』であることが推測される。

 また「ひとさまさま」という同志たちの消息欄があるが、そこで渡邊政太郎に関する項があり

《旧社会主義同志会の驍将なる氏は近頃飴屋となりて太鼓を叩き市中を行商せり一名の巡査は常に此飴屋さんに尾行して市中を廻れり護衛つきの飴屋は神武以来蓋し之を以て嚆矢とす》と記述がある。
 
 国民作家となる漱石の関心をひくほど過剰な監視がされていたわけである。渡邊は杉村にも言及をされていた同志である。

平民社の様子
「平民社を訪ふ」と題された訪問記が『自由思想』創刊号に掲載されている。

筆者は霜堂という号、本名は不明。

「此志島中将、金森通倫、横井時雄、建部遯吾などいふ世に時めく人々の大厦高楼の列なる中に、秋水の家は相変らず見すぼらしい朽ち果てた黒板塀で、夫れでも門構への一軒立ちだ、」と周囲は当時の軍人、文化人の家が並んでいることを報告

「玄関の三畳には、カールマルクスの像が来客を威し付けるやうに掛つて居る、無政府党になつたと聞て居る男の家にマルクスの看板はおかしい、日本では社会民主党と無政府党とが連携して運動して居る、不思議な現象だ」

と主義の違いを理解している。

「玄関を抜けると、意外に広い庭に面した縁側で、手前が六畳、奥が八畳、六畳は同志の談話室だとかで、一貫張の小机を中に三四人の書生らしい人と職人らしい人が愉快さうに何か話して居た、是れが革命家といふものかナと思つた」

と同志たちの様子を描写している。

「八畳に呼込れた、秋水の書斎兼寝室らしい、……此机は張継の遺物で、奇麗な書棚は神川女史のだといふ、聞て見れば皆な借物だ」「六畳にはクロポトキンの小さな像、八畳にはバクーニンの大きな大きな額がある、」

と細部の様子と主義に関わる品物に触れている。  

一九〇九年秋
 百年前、一九〇九年の秋にハルビンではアン・ジュングンが伊藤博文を射殺し、長野では宮下太吉が天皇打倒のための爆裂弾を準備していた。夏目漱石は後に小説「門」で伊藤が射殺されたことを登場人物を通して触れるが、この年、秋まで『朝日新聞』に連載をしていた小説「それから」では千駄ヶ谷の平民社、幸徳たちへの天皇国家による監視体制に関し言及する。



 略


監視の強化

 平民社への監視体制は前年六月の杉村楚人冠の訪問時より一段と強化されていた。

 初期の社会主義者で幸徳秋水の友人でもある吉川守圀が活動の回顧録

『荊逆星霜史』一九三六年《五七年、青木文庫版》

において平民社訪問時の様子を描写している。吉川が平民社を一〇年一月に訪ねた際、来た時と帰る時に身体検査を受けているのである。
 
# by koutokushuusui | 2011-07-12 19:49

12名の遺体引取り

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# by koutokushuusui | 2011-07-12 19:09